分からないことのあまりの多さに

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地震がおきてから5日がたった。
どうしてか、一度も「怖い」だとか「不安だ」と思っていないので、周りの怖がる友達や不安がっている人たちに、何かしてあげられないだろうかと思いつつ、何もできず、ただただ不思議な気持ちで眺めています。

あまり生きることに関心がないからだろうか、それとも最後にはわたしは何とかできる、と信じているからだろうか。恐怖とか、特に感じない。

地震が起きたとき、泣いている子がいた
明らかにイタズラのつぶやきがtwitterをRTされて広がっていく
どう考えても非科学的なことを、本気で信じている、みんな
東京で、マスクをしている人たちが、花粉症にしては多い
スーパーで、買いだめをしている人たちがいる
東京から離れようとしている人たちがいる…

関東大震災のあと、外国人への差別や暴力が激化したと、教科書で読んだのをなんとなく思い出す。あと、オイルショックでトイレットペーパーの買い占めが問題になったと。小学生の時は、そんなばかな、昔だからかな、なんて甘く考えていたけれども、今だってなにも変わらない。不安や恐怖にかられると、同じようなことが起きている。

わたしは、誰を非難するつもりもない。東京を離れたければもちろんいったらいいし、不安ならマスクをすればいいし、買い占めたければすればいい。安全だ、と言われても納得なんて出来ないだろうし、「買い占めると物がなくなります!」なんて言われたら、家族のいる主婦なんか、余計不安になって買い占めるに決まってる。何日後に絶対にこれだけの商品がスーパーに入ります。何日後に原発の問題は何もなかったようにすっきり解決します。そういう事にならないかぎり、こういった行動はなくならないし、個人を責めるのはカワイソウだと思ってしまう。

比較的被害の少ない東京でもこうなのだから、被災地の状況は計り知れない。不安や恐怖に支配されると、個っていうものはどんどんなくなっていくように見える。自分と価値観の違う人がどうしても受け入れられなくなって、どうでもいいようなことで対立するんだけど、大抵の場合、議論は成り立たない。一方的に相手を攻めて、自分の考えに従わせようとする。みんなが、あらゆるひとが、同じ方向を向くのが理想で、そこからずれる人をどうにかして排除しよう、という思考方法になってしまう。

なんというか、こういうことが本当に起こるのか、ということに、ただびっくりしている。 『白いリボン』で村民の中に渦巻いて言った悪意や疑心暗鬼がラストで戦争に向かった様と、何も違わない。災害っていうのはいつも想像力の中にあって、身を持って体験したことはなかった。今回も、体験した、というほどではないけれど、目の当たりにしたような感覚はある。

劇作家の倉持裕@kuramochiyutaka)さんが、こういうツイートをしていた。

”描かれる世界全体がある大きな何かの影響下にある、という設定の芝居はこれまで何度もあったし自分も書いてきたが、そのほとんどは体験から生まれたのではない観念的な作品だった。しかし今我々はそれを体験している。しっかり見て覚えておこうと思う。”

この体験を、創造に替えられるのはアーティストたちだと思う。また、私たちも、この体験をただただやり過ごすのではなく、ここから何か生み出せると信じて、着実に乗り越えていく必要がありますね。

被災地では、懸命に働いている人たちがいるし、計り知れない恐怖や不安と戦っている人もいるし、身近な、大切な人を失った人達もいる。そうした人たちのことは今後数年間にかけてずっと念頭に置いておきたいし、出来ることはしたい。けれども、それとはまた違ったレイヤーで、わたしの体験したこの地震は上に書いたようなこと。この体験も、何かに還元できたらな、と思う。 

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