高校生の時の寺山修司との出会いは衝撃だった。演劇だ、劇場だ、なんでもいい、どこでもいい、言葉と身体だ!
図書館に通って本を読み漁り、演劇や映画を観て、前例の無いことをやろうと突っ走った。
幼かったけれど、強くて純粋だった。
そう言った衝撃の出会いを求めてもそれはもうやってこないんじゃないかと気付いたのはつい数年前のこと。
多感な一人の女の子が図書館の棚の隙間でひっそり涙を流したのは事故だ。災害だ。
出会ってしまったからしょうが無い、というもの。
自分が世の中に対して圧倒的に小さな存在で、何もできなかったけれど神経は研ぎ澄まされていた、あの時しかありえないもの。
思春期をすぎてからの自分のやりないこと探しというものは、いわばあぶり出しのようなものだ。 自然と惹かれてしまうもの、つい目を離せなくなってしまうものを改めて見直してきたときに浮かび上がってくるもの、それが大切なものなんじゃないかと気づいた。あぶり出しの方法は、人の数だけあって、それは自分で見つけるしかない。火であぶるのか、水につけるのか、誰にも分からない。
大きな存在に衝撃を受けて全身全霊でそれに向かっていく、ということも今はなく、ただ、あぶり出しの方法を模索するばかり。
定まってないから揺れちゃってタイヘンだね。
落ちぶれる自由がすぐそこにある。
ちょっと気を抜いたら落ちられるスリル、今見える崖が明日には見えなくなって気づいたら落ちきっているかもしれない。
どこに立つのか考える、何を頼りにするのかを考える、そんな年末年始。
まずは大事だと思えるものを、きちんと大切にしていきたい。