まぼろしの仕事

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「何のお仕事をされているんですか?」と聞かれると言葉に詰まる。

何もしていないです、というのもおかしい。だけど、例えば会社での仕事を「わたしの仕事です」と言い切れないものがある。

仕事ってなんだろう、と突き詰めて考えると、やっぱりわたしは何もしていないんじゃないかと感じる。

現状に不安はあるけど不満なわけではないし、会社での仕事は、まあ楽しい。正確に言うと、自分次第で楽しくできる。

そうじゃなければ、世の中の多くの人がサラリーマンになるわけがないし、一つの会社に定年まで勤めることが可能な時代にそれを実践する人がそんなにたくさんいるわけがない。

しかし例えば、今の仕事を縄文人に見せたら何というだろうか。「これがわたしの仕事です」と言って、理解されるのだろうか。

農業だとか、あるいはミュージシャン、絵かきなんかは、ああ、そういうことね、と理解されそうだけど、毎日パソコンに向かってカタカタやってるのを見せられても、全然意味分からないんじゃないだろうか。縄文人どころか、わたしもたまによく分からなくなる。まあ、自分で分からなくなるのは、落ち着きがなくて、何かの作業を反映してる待ち時間の間にちょこちょこtwitterとかfacebookとか見てるせいだと思うけれども。どこまでが仕事で、どこからそうじゃないかって言う境界線が存在しない。

ある程度の規模の会社での仕事というのは、すべてがそうとは限らないけれど、その多くは幻を売る仕事なんじゃないだろうか。

予算が組まれて目標や実績を決めて、その達成のために計画をねって実行していく。なんかうまいことやってくと儲けが出てよかったね、ってなる。特にWEBの業界にいると、作るものにも実態がない。何か端末を通さなければ見れない、手にとって触ることができないモノをひたすらつくる。

組織の中で働いていても「わたしの仕事」とは言い切れないし、だからといって、「労働」だと思ってとりかかると疲弊する。作るモノの実態がない労働というのは、結構虚しいものだと思うんだけどそんなことないだろうか?

エンジニアの方なんかだと自分たちを「IT土方」なんて言って、労働者になぞらえるのを楽しむ文化があるけれど、わたしのように企画とかディレクションなんかをしている人間が、自分の仕事を労働だと思ってしまうと、なんだか空虚な感じがする。

この感じが何かに似てるな、と思っていたけれど、それはゲームかもしれない。弱い敵と繰り返し戦うか、強い敵に無理やり挑戦して経験値を積んでレベルをあげる、とか、敵に勝ったら幾らかの架空のお金が手に入って、それで装備を揃えてまた戦う、とか、それっていつも会社でやってることと、そんなに大きく違わないような気がする。

じゃあどういうことだと「わたしの仕事」だと言えるだろうか?

私のまわりに「この人は仕事をしているな」と思える人が何人かいる。そういった人たちに共通するのは、自分で事を起こしているということ。結果として起業してるかフリーの場合が多いけれど、形態は特に問題ではなくて、自分が必要だと思うことを、自分で動いて成し遂げているということだ。その難しさは、最近になって改めてよく分かるようになってきた。

何か起こしたいのはやまやまだけど、その取っ掛かりがつかめないままずるずると3年も経ってしまっている。

そのことに苛立ったり、焦ったりしてきたけれど、最近になってちょっと考え方が変わってきた。会社での仕事と「わたしの仕事」というのは決して二項対立じゃなくて、地続きなんじゃないかと気付けたからだ。

今すぐ何か事業のアイディアがなくとも、自分の特徴を最大限に活かせる分野をなんとなく見据えて、その方向に役立つ「レベル上げ」をするためには、仕事自体に意味があるかどうか、とか、虚業じゃないか、とか、別に関係ない。仕事の結果は数字で見ればよくて、それ以外のレベル上げの部分の方向性を誤らない、あるいは、誤ったとしても自分で気づいて修正できる感度を持ち続ける事が必要なんじゃなかろうか。

会社での仕事を経て起業へ、というと極端だけど、例えば会社の中で出世して、事業を任されて「自分の仕事」を実現していく、という昭和の王道パターンでも、本質は同じなんじゃないだろうか。

ひとまず、20代なかばでの会社での仕事は、「遊び」だと思えばいい。もちろん結果は出さないといけないんだけど、それ以上のことをやらなければ、と硬くなってしまう必要はない。

一方で、「わたしの仕事」ができるようになるために、小さくても事を起こしていけばいい。

自分の特性を活かしたスキルを磨いていく道と、とにかく必要だと思う事を起こしていくことがどこかで交わって、全部まとめて「わたしの仕事」と言えるために、ちゃんと進めていくことが大事。

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