Jul 29, 2012

さみしさと青色 -海、空、宇宙-


子供のころ読書感想文が大の苦手でした。それは人と自分との距離の測り方がよく分からない、という感覚に似ているかもしれません。どこまでが自分個人の言葉で、どこからが他人に届く言葉なのか。自分の書く文章は、自分と他人との間をふわふわと行ったり来たりしていて、ある時急に、そのふわふわ漂っている空間自体が自分にしか関係のないものなのではないかと不安になって萎縮してしまったりする。文章を先生に添削されるということも苦痛で、なぜ直さなければいけないのか、いくら説明されてもよく分からない。言葉というのはどうしても自分の中から出てくるものだし「正しい文章」が何なのか、結局よく分からないままぼんやりと大学の文学部まで卒業してしまいました。

とくに読書感想文の場合は、人の書いた本を読んで書かなければならないというのが、とても難しい。読書というのはとても個人的な体験で、だからこそ文章にして皆に伝えろと言われるのだけどどこまでが人が読んで楽しいものなのか、その加減が全く分からず混乱してしまいます。

吉本隆明は、いい詩人は「この人は自分にしか分からないことを書いている」と多くの人に思わせるものだ、と書いています。私は、それは詩に限った事でもないのかもしれないと思います。音楽でも、小説でも、映画でも、すぐれた作品は「どうして私しか知らないはずのことをこの人は分かっているのだろう」と思わせてしまうものです。だから、芸術家は女たらし男たらしになってしまうのでしょうね。

読書感想文の課題図書は、すぐれた作品のはずなので、もしかしたら「自分にしか分からないこと」をそのまま書いたらいい点もらえたのかもしれないと、今ならちょと思います。

そんなわけで、自分の言葉を自分から少しずつ離していって凧上げみたいにどんどん遠くに離していく、ということをやってみたいと思います。同じことについて何度も書いていくうちに、自分から離れて遠くに飛んでいくんじゃないかと思ってみたり。自分の思うことばかりを書いていてもつまらないので、読んだ本のことも盛り込みつつ、いまさらだけど読書感想文みたいな感じでつらつらと書いていこうと思います。

最近気になっているのは、谷川俊太郎の『20億光年の孤独』です。孤独と宇宙というのはつながりやすいものだと思うけれど、とくに谷川俊太郎の詩での表現は好き。小さくて固い石のようなさみしさと、遠くへの視線、そして宇宙から目を離さないけれど、誰かを求めている。遠くに遠くに意識は飛んで行くけど、くしゃみで今ココの自分にふと戻ってくる、その移動距離が詩になっています。

今日twitterで、寺山修司の詩が目に入りました。

さみしいときは 青 という字を書いていると落ち着くのです

青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青 青

本が見当たらなかったので改行が分からないけれど。

寺山修司の作品だと、海がよく登場します。この青も、まずは言葉として、響きとしての「青」から徐々に海を想像するのですが、視線ははどんどん遠くへ遠くへと一直線に飛んでいきます。

一方、大林宣彦監督は、海を撮りたがっていたはずなのに、ある時からカメラが自然と山に向かってしまうようになった、と著書の中で書いています。

海を見るときは、みんなが同じほうを向いていても、それぞれが自分にとっての遠くをみて頑張ろうとする。それが海外の文化や経済を輸入したり、どんどん開発させようとすることとにつながったのだ、と。

でも山は、みんなが別々の場所にいても、同じ一つの山を見て手を合わせたりする。そこには、日本人が大切にしてきた『約束』があって、奥底のその感覚が、眠っていた”山彦”をよみがえらせるのではないか、といいます。

孤独ということ、そして人とつながろうとすること。

海や空、宇宙への一直線の視線と、山に集中する視線。

情報があふれているから、誰もが輝いてみえて、あちこちに視線が行って混乱して、目の前のことに全力を出せなかったことがありました。だけど、どこかに進もうと思ったら、遠くを見ようと思ったら、まずは孤独にふりきってみないといけないな、というこの頃です。一人の世界に入っていったり、時々息継ぎに出てきて楽しく人と会ったり、そのバランスをうまくコントロールしていかないといけないですね。

山に視線がいくのは、もっとずっと先、何十年か後かもしれないな。

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